財布

僕は10年以上、同じ革製の財布を使い続けている。

 

角は穴も空いてるし、黒く汚れている。

 

両親から貰ったものだけど、父はたまに会えば僕の財布を見て、財布は定期的に買い換えた方が良いと言う。

 

仏道

自分の願い事をやりとげてから後で、ひまがあって仏道に心を傾けようと
するならば、願い事はなくなるはずがない。
幻のような人間の生涯の中で、どんなことをやりとげようとするのか。
何もする必要はないのだ。
願うことは、みな正しくない考えである。願い事が心に生じたならば、あやまった考えがわが心を迷わせ乱すのだと自覚して、その一つをもやってはならない。
即座にあらゆることを放棄して仏道に心を傾けるならば、心に何の障害もな
く、身になす行為もなくて心身ともにいつまでも安静なのである。

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10人に対して各自に1人分の席が与えられているはずなのに、最後に座る人は0.8人分しか座れないから窮屈な思いをする。

みんなが少しずつ他人には自分が欲張りな人間だと知られない量の面積を余分に主張する。

誰かが手放す余剰があると信じている。

誰かが9人分の欲張りさのツケを受け取ることになると考えられない。

それぞれが自分が主張した余剰な利益は誰かを傷つけないと信じている。

だから、誰も傷ついてないと思ってる。 

席を譲れる人


席を譲れる人は、優しいだとか、気遣いがあるだとか、そんなことは、全く不確かな、主観的なものでしかない。
席を譲れる人は、席を持つということしか、そこに客観的な事実はない。
寄付だとか、親切だとか、そんなものは、持っている人間にしか出来ない。
席を譲られて、座っていた人間に、感謝するくらいなら、この電車で最初から座ってない人間に頭を下げるべきではないか。
あなたのために、座っている人間を殴って、席を用意しましたっていう人間がいたら、感謝するべきだと思う。
結局、いいことするにも、財力か、自分自身を捧げるか、どちらかしかない。
そのどちらも出来ない人間は、いいことすら出来ない、社会の中の、無視された存在だ。
その存在すら、持っている人間からは、認識されない。

人が関心を持つのは便器まで。


分別だとか、エコだとか本当は興味無いんだろう。

ゴミ袋をまとめて、それをゴミ捨て場に放り投げた時、もうそのゴミ袋は、関係ないんだろう。

そのゴミ袋に、スプレー缶が入ってようが、燃えるゴミに、
燃えないゴミが混ざっていて、ゴミ捨て場に、ずっと置き去りにされていようが、もう関係ないんだろう。

処理するのは、自分じゃないんだからね。

こうやって、色んな責任が、どこか遠くに、流されている。

それが行き着く先に住む人間は、私たちを殺すだろうね。

ちなみに私は、燃えるゴミに、加湿器を捨てたことがあります。


醜く生きる


人は醜く生きて、醜く死ねばいいと思う。

そういう醜くい生き方をしている人間に、理解を示す必要もない。

そういう醜くい生き方をしている人間に、理解を示さない人間も、醜く死んでいい。

そういう醜くい生き方をしている人間を侮蔑や軽蔑している人間も、醜く死んでいい。

そういう醜くい生き方をしている人間にはならないと決意した人間も、醜く死んでいい。

美しく死のうと思うな。

しかし、美しく死ね。

美しく生きようと思うな。

しかし、美しく生きよ。

なんでもいいや。馬鹿だな。




仏教徒は星に願うか



願いとは仏教においては本来、その宗教な目的上存在し難いものではあるが、大乗仏教においては、誓願という形で、誓いを守り抜くと願いがかなうという、菩薩行は初期大乗仏教の目玉商品であった。
特筆すべきは菩薩行のシステム上、仏の教えを知っていなければいけないということがなく、言い換えれば仏法を知らなくても良いということだ。
しかし、そのようにしても、願いというのは誓いを守り抜いて得られるものである。まさにまずは、自力に他ならなかった。
仏教徒は星に願う際に、同じく誓いの言葉も、星に対して立てるべきかもしれない。