休もう、once more

7月に入ってからというもの、胃腸炎にかかり、治ったと思うと蕁麻疹になり、また落ち着いた頃に帯状疱疹になった。働くこともできずにこの7月はほとんどまともに出勤していない。 休んでいると色々仕事のことが気になるが、会社組織の仕事というものは自分がいなくても勝手に進んでいくことは進んでいくもので、進めなければいけないもので進まないものは誰かが新しい方法でコトを進めてしまう。果たして自分の仕事とはなんぞやと思う。


会社というものは度々、植物と似ていると思うことがある。花が切り落とされようが、枝が数本切り落とされようが、植物は生きている。それどころか、十分な栄養さえあれば、植物は新たな細胞を組織し、その埋め合わせを行う。違うところといえば素早い意思決定の組織を持っているかどうか、というところだろうか。 植物の生存戦略は本当に素晴らしく、①勝てる場所を見つける②誰よりも早く成長する③そして大きくなり他の植物の成長を許さない、というあたりが、植物の基本的な生存戦略に思える。ことに③については過激だ。森林というものが、ある種の戦場だとも思える程に。


植物が植物たる所以として植物は光合成を行う。光合成を行うのは植物細胞のなかの細胞内器官の葉緑体によって行われる。葉緑体はもともと独立した生物だったという。

 

葉緑体は、細胞の中で独立したDNAを持ち、自ら増殖していく。そのため、光合成を行う単細胞生物が、他の大きな単細胞生物に取り込まれて、共生していくうちに、細胞内器官となったと考えられているのである。『植物はなぜ動かないのか』稲垣栄洋

 


植物は光合成により、炭水化物を生産する。化学を勉強していれば当たり前のことのように思えるが言い換えれば光のエネルギーを植物を含んだ全ての生物に利用できるエネルギーに変換しているということだ。 僕はさっき、会社は植物組織に似ているなと思うことが度々あると述べた。社員は植物細胞だと仮定すると植物でいう、太陽光エネルギーは会社組織でいうと何にあたるのだろう。僕はどんなエネルギーを受けて何に変換して、社会に還元しているのだろうか。
Pinboardというソーシャルブックマークサービスを営むマチェイ・チェグロフスキはこういう風に言っているという。

好きなことをビジネスにできているのだから羨ましいと思う人もいるかもしれませんが、「好き」だけでは人は働き続けられないものです。「好き」は、キャンディのようなもので、栄養にはなりません。「働く」ことを続けていくためには栄養が必要です。ぼくにとってのそれは「誰かの役に立っている」ということなんです。『WIRED 2013.03.11,Vol7』

 


考えてみると、僕たちは根を張らないはずなので好きなところに行ける。太陽は一つなのは間違いないが、僕たちがエネルギーを受ける対象は一つとは限らない。 好きなエネルギー、嫌いなエネルギー様々だと思う。逆に、人のエネルギーを食い物にしている人もいるし、人に大きなエネルギーを与えている人もいる。そして、栄養も人それぞれ違う。やりがいが栄養だという人もいるしお金がなによりの栄養だという人もいる。

重要なのは、それが本当に自分にとっての栄養になっているかどうか、見極められるかどうかだと思う。科学的に根拠のないものにこれは身体いいとか言ったり、そんなものはいくら摂取しようが身体にとっては何の栄養にもなっていない。
そういう意味でこの休みは自分にとっていいものだった。体調不良というものは、どうも起きることにいつも意味があるように思う、当然体調不良には原因があるので、それを振り返る機会にもなる。働いていないと、いつもより仕事以外のことについて考える時間が増えて、有意義な時間となる。

なんにせよ起きたことにいい意味を持たせることは得意な方だと自負している。

少林寺の君

Youtubeに映画『少林サッカー』の名シーン集というようなものを見ていた。

少林サッカーを見ていると思い出すことがあったので、忘れないうちに書き残しておきたい。

小学生のころ、英会話の教室に少林拳法を習っている女の子がいた。確か父の影響で習っているというようなことを言っていた記憶がある。名前は覚えていない。学区が違いますとなりの小学校から来ていたと思う。

なんで名前も覚えていないような子のことを突然思い出したんだろう。しばらく不思議だった。脳の仕組みというものは良く出来ていて記憶は失わないけど、どこにしまっておいたのかが分からなくなってしまうだけなのかもしれない。

それがたまたま、『少林』という言葉でしまった場所を思い出しただけなのかもしれない。厳密に言えば、そこには加えて記憶を取り出すという行為が存在するように思われるが、思い出す思い出さないというのは自己でコントロールすることは出来ないので、しまった場所を思い出すことが即ち記憶を思い出すということになるのだろうか。

例えば何か部屋の中で物を探している時、無くし物を置いた場所を思い出した時、もう思い出す・思い出さないという選択はなく、思い出すことしか出来なくなる。これは選択できることではないのだ。

 

何にせよ。僕の人生のなかで出会っていた人間を思い出せたことは幸福だと思う。僕の人生は僕の記憶であるからして、忘れてしまえば、僕の人生からはその人はいなくなる。押入れの奥深くにしまい込んだまま、消えてしまう物のように、存在していても存在していないことと同じだ。

だから、こうして書き起こせば少しはまた記憶の隅に追い込まれにくくなると思った。僕の人生を構成する人間がまた一人増えた、そう思えば喜ばしいことだと思う。

鳥貴族でコーヒーを飲みたい

以前、Twitterの方でこんなことを呟いた。

 


すると妙に反応してくれる人が多かったので、同じことを考えている人は多いのかもしれない。

雑誌WIREDのなかで日本版前編集長の若林恵のEDITOR’S LETTERのなかにこんな話があった。私もお酒があまり飲めないので、飲み会だとかに行くよりはコーヒーを飲んで話でもしたいなと思う方だ。

 

「お酒がダメなので、昼でも夜でもやたらとコーヒーを飲む。スタバはタバコを吸えないし、深夜はやってないので却下。深夜であれば何杯でもおかわりできるファミレスが望ましい。そこで、友人と延々与太話をしたりする。ほとんどはロクでもない内容だけれども、4、5時間話し続けたあげく、面白い地点に到達することがある。おおげさに言えば、いままでお互いが考えてもみなかった新しい認識にたどりつくようなことがある。気になりつつも放置していた情報やアイデアが思わぬところで結びついたり、ぼんやりしていた企画がくっきりと像を結んだり。新たなパースペクティヴが生まれる、とでも言おうか。」 

 

よく久々に友人と会話したりすると、「今度飲みに行こうよ」などというセリフはこんな時の常套句。別にお酒の席じゃなくてもいいんじゃないのと思うけど。「今度コーヒーでも飲みに行こうよ」というセリフはこういう場面で出くわしたことはないし、私も発したことがない。
そもそも、「飲みに行きたい」とかそういう意味をこの場での「今度飲みに行こうよ」という言葉には含まれていない。「久しぶりだね」という頭語に対する結語みたいなもので、拝啓に始まり敬具で終わるような、ある種のマナーなのだ。

いつの間にか友人たちや会社の人間とはアルコールがセットの付き合いになっていた。これは大学生以降顕著に見られる付き合いの場の選択肢の減少。
アルコールを挟まないで関係を維持できる友人たちってあなたどのくらいいらっしゃるの?って、自分に語りかける。
いや、酒の席というきっかけでしかいつの間にか集まることがなくなってしまった。
いや、そういうことでは酒の席というものは希少なものだと思う。自問自答する。

ほんとは会社の同期とはコーヒーでも飲みながら建設的な話をすることを夢見てる。上司がどうのとかそういう話は面白くない。何が好きでいま何に夢中で何がしたいとかそういう話をしたい。
友人たちともコーヒーを飲みながら哲学や倫理について、これからの生き方について大いに語り合いたい。酔っ払った自分という盾を構えて話すのはたまには休みたい。脳をカフェインで覚醒させて大いに語り合う。そんなこともいいと思います。

 

 

エアコン無しでは生活できない

私は基本的に、生活というものは、なるべく独立したものであるべきだと思っている。

生活を成立させるために依存するものが多いということは好ましくない状況だと思う。

自分自身の努力で依存するものを減らすこともできるが、なかにはそうでないものもある。

 

この夏も都内は暑くなりそうだ。よく言う東京はエアコン無しでは生活できないという言葉。

これは本当にそうで毎年室内で熱中症で亡くなっている方も多いのでエアコンがない生活というものは真実なのである。徒然草の中に、家の作り方について兼好法師が語る節がある。家づくりは、夏のことを考えて設計するべきだろうと語る。もはや都心の建物設計はエアコンが稼働する前提で造られている。

エアコンが欲しいわけじゃない、追い込まれてるだけだと思う。追い込まれてるから欲するだけで、僕たちが普段使う「欲しい」という言葉のニュアンスとは随分違うように思う。

しょうがないことだと思うけど、絶妙な違和感を覚えることがある。北海道だって暖房器具が無いと死んでしまうかもしれないと言えるけれど、北海道に住んでいた経験上、布団の中にいれば死ぬことは無いように思う。生き生きした生活では無いけれど。肝心なのは追い込まれたというところか。

名古屋 伏見 珈琲処カラスについて

名古屋の伏見駅から徒歩5分ほどのところに純喫茶と呼べる珈琲処カラスがある。駅から行かれる方は6番出口を使うといいだろう。

お店の外観といい、内装といい、「これこれ」と言いたくなるような純喫茶の空気に満ちている。

店内にインベーダーゲームの台がテーブルとして使われていたりおもしろい。

お昼時で混んでいたのか、最初に案内されたのは相席のテーブルになった。目の前のお婆さんが中日新聞を広げて読んでいた。

すみませんと言いながら席に着くと、どうぞと、にこやかだった。しばらくするとお婆さんがテーブルに小銭を積み上げて、「お金置いとくね」と店員さんに言ってお店を出て行く準備をはじめた。

お婆さんは読んでいた中日新聞を折りたたんで私に差し出して、よかったら読んでくださいと言って、出て行った。

私は店員さんへ、オムライスとブレンドコーヒーを注文した。オムライスは非常に家庭的な味付けだった。福神漬けが添えられていた。オムライスに福神漬けという組み合わせは、珍しいと思った。しかし考えてみると、下北沢のキッチン南海でも、オムライスを頼むと味噌汁が付いてくるのでなんでもありなのかもしれない。ところで、この味噌汁がとても美味しいのでいつか語りたい)

なにも言わずとも食後にコーヒーを持って来てくれることもありがたい。ブレンドを頼んだつもりだったが、アイスコーヒーが出てきた。外も暑いしこれはこれでいいだろうと思ってそのままいただいた。こういう偶然には乗っかるほうである。コーヒーには小袋に詰まったお茶受けが付いていた。

よい雰囲気だったので、名古屋に立ち寄った際にはまた行きたいお店であった。