所有物と管理能力の関係について

 


結論から言うと・・・

・個々人が管理出来る所有物の量と実際の所有物の量が合っていないと物が片付けられなくなっていくということ。
・所有物の管理には「時間」と「空間」の要素が必要になるということ。これらを総じて管理能力と呼びたい。
・自分の管理能力を自覚すること。管理能力よって所有物の量を決めること。

部屋の片付けをできない人はもしかして、管理出来る所有物の量と実際の所有物の量が、実際の所有物の方が上回っているからなのではないかと思った。

自分の管理出来る量に対して自分の所有物も合わせていくか、自分の管理出来る量を上げていくしかない。

所有物を管理するのはまず、「場」が必要である。当然、物は空間を占めるのでそれに合わせた「場」が必要なのである。自分の所有物の量はいまの住まいに対して適正かどうか考えて見るとよい。少なくとも収納スペースに入れられない物が今あるとしたら、いまのあなたにはもう空間が足りていない証拠だ。そうなると方法は下記の3択になる。

①空間を広くする
②所有物を減らす
③収納の方法を考える

ここで問題なのは③の方法についてである。収納方法を効率的にしてもっと所有物を増やせるように努力をするとどうなるか。次は管理にかける時間が多くなるので、結果的に断念してしまう人もいる。空間について考えるときは、常に時間についても考慮しなければいけない。
所有物の管理には「時間」と「空間」の把握能力が大切になる。適切な空間量か、継続できる作業時間であるか、よく考えてみると良い。またこれは原則的なルールなので、アナログ・デジタル問わずに運用できると思っている。

とかく、片付けの問題になった時に、継続できる作業時間であるかどうかということは、考慮されることが少ない。例え、何かの方法に乗っ取ってみたとはいえ、継続出来なければ全く意味を為さない。それどころか、生産性を著しく下げる楔にすら成り得る。
実際、この問題は片付けだけの話ではない。継続できる仕組みかどうかというチェックが出来る人間はその作業を行なっている当の本人でしかない。本人については、決して保守的になれと言うわけではない。継続できそうですか?と聞いているだけなのだ。

ところで、片付けとは何だろう。何を持って片付いていると人は判断するのだろうか。あるべき場所にあるべき物がある状態とここでは共通の認識としておきたい。
こんにち、片付け学とでも言うべき小難しい議論が蔓延っているが、要するにあるべき場所にあるべき物があれば片付いている。そして、あるべき場所にあるべき物があるというのは個々人の判断ではなく、社会的通念に起因している。例えばクローゼットで本を収納しよう。個人では、それでよしと思うこともあるかもしれないが、本は本棚にというのが通念でいう規則。社会的通念に反した収納スペースはないか省みてもいいと思う。

今回はこれくらいにして筆を置くことにする

コーヒーカップについて

今朝、コーヒーを飲みながら思った。マグカップとコーヒーカップで飲むコーヒーの味に違いはあるのかどうかと。
調べたところ、マグカップとはカップのうち取っ手のついたカップを指示するらしい。なので、コーヒーカップもマグカップの仲間なのである。
では一体何が違うのかと言われると、それはカップの深さと口の広さである。こんにち、我々がマグカップと呼ぶものは大きめのカップであることが多い。口も広いものが多いのではないだろうか。
対してコーヒーカップは温度が下がらないように口は狭くなるように作られる場合が多く、保温性の高い、底も深いカップのほうがよいとされているらしい。保温性を高めめるには当然、カップ自体の厚みも変わるので、口に当たる感覚も変わるというわけだ。
なるほど、コーヒーはコーヒーカップで飲むほうがいいだろう。
ちなみにティーカップは対して、紅茶の色を楽しむために底は浅く、口は広いものが使われるらしい。また、カップの底に模様があればそれは確実に茶を楽しむためのカップだろう。
カップの世界もまた奥が深い。道具について真剣に向き合うことが出来る日だった。

今日の雑感

今日は正午過ぎに起きた。昨日の酒も抜けきっていないようで、身体が重く感じられたし、今日はさむい。しばらく布団の中にいて、昨晩の事を思い出した。遅くまで酒を飲んだ次の日は大抵こうして省みている。ろくなことはない。

小一時間ほど、そうした後、玄関から新聞を取り出して、見出しを一瞥して、ソファに投棄て、あたためたナポリタンをもそもそと食べて、珈琲をいれた。豆がさいごの一杯ほどしかとれなかった。買いに行こうと思った。外に出るのには十分な理由になった。今日はさむいから、コートを羽織って駅に向かった。電車で少し眠った。電車を降りてから眠ったままの気がしたまま。街をぶらぶらして、喫茶店で珈琲を飲んだ。豆屋に行き、コスタリカの豆を200gを細挽にして袋につめて貰った。蕎麦屋に行き、中華そばを食べた。卓上胡椒を目いっぱいかけてやった。私の他に客もいないので蕎麦屋の婆さんと上の棚に置いてある小さなテレビの野球中継をしばらく見つめて首が疲れたので店を出た。婆さんは手際よく丼などを片付けて背中越しに私にありがとうございましたと言ったのが、戸を閉めた際に見えた。水煙草屋に行きソファで寝ながら本を読んだ。また冷えてきたので、帰りに別の喫茶店でホットチョコレートにラム酒を多めに垂らして飲んだ。スーツ姿の男女が、近くの酒場で猥雑な話をしている。タクシーが人混みを避けて動いている。8時を過ぎても誰も彼も帰路に着く気配も無い。豆を入れた薄い小さなビニール袋を大事に抱えて帰った。

知らない街も知ってる街も休みの日に歩くだけで、気づくものが多い。

天気とかにおいとか、偶然に見かけた人とか、車とか、いろんな要素が違う様に見せてくれるし、実際違うのだろうと思う。同じ街は二度とない。

自分自身にとっての何よりの身近な非日常は、他人の日常なのかと思う。そして何よりも再現不可能に思える。

電車の窓から様々な住宅が見える、そこに住むひとりひとりが私にとっての非日常を生きている。信じられないことかもしれないが。

朝の珈琲

毎朝、モーニングを食べている喫茶店にて、珈琲を頼んだところ、マシンの調子が悪いらしい。

珈琲の味が変わっているかもしれないと店員に言われた。私から言えばこれまでに違う味に感じる日は幾度かあったのだが、これは相当のようだ。


はっきり言ってこの店の珈琲はそもそも美味しくないが、店が早朝から開いていることと新聞を広げて読めるテーブルがあることが評価できるため通っている。


基本的に朝は珈琲を飲みたい派だけれど、たまには紅茶もいいかと思って注文した。

こういう偶然は積極的に受け入れる方だ。


朝の時間というものは、どうも毎日同じ行動をしてしまう。同じ時間の同じ電車の同じ車両で同じ席に、同じ時間に駅に降りて、同じ時間に朝食を食べて、同じ珈琲を、同じ時間に職場へ・・・


今日は一つ朝の行動を変えることが出来たという訳だ、これはいいことだろう。