承認欲求の包括する条件について

 

承認欲求が包括する条件を整理してみると、承認欲求それ自身がまず自分が認められたいという欲求であることの以前に他者を認める行為であることが言えると思う。つまり、承認欲求が満たされるには、だれに承認されたのか、どのコミュニティの中で承認されたのか、それに依存しているからだ。言い換えれば、自分の承認欲求が満たされた時、少なくともその他者を、自身は、自身と同等あるいは同等以上の位にあると認めている。

数ある欲求の中でも、承認欲求ほど他者に依存するものは無いだろうと思われる。承認欲求を満たしたいならば、他者あるいはコミュニティを大切にしなければならない。自身が、他者、コミュニティを育むくらいの気持ちにならなければならない。認められたいと渇望する側から、認める側へ移行すれば良い。それは、承認を通じて、自身が、その他者へとのつながりを明確にする他、関係性を通じて、そのコミュニティの中に自身が存在していることの表現、強いて言えば、存在の拡大を計れる。これは、或るコミュニティへ参加したい場合も有効に思える。承認を通じて、関係性を表現している行為なのだと。

無くし物

 

先日、買ったばかりの物を買い物袋に入れたまま、どこかに置いてきてしまった。鋳物の小さな灰皿である。服を試着した店に置いてきてしまったのか聞いてみたけれども見つからなかった。無くしたことは悔やまれる。

 

考えてみると、無くし物はどこで無くしたのかということで精神的な消耗が変わる。

家で無くしたら、いつか出てくるだろうと安堵できる。

出て来なければ、外で無くそうが、家で無くそうが同じなのに、空虚なものに精神的な頼りを置いていることに、すこしがっかりした。

灰皿は無くしてしまったが、そんな教訓を得て、またこうして精神的な頼りを試みている。

非日常性は日常性の中に

 

昼間、車内の電気を消した小田急線が走っていたことがある。空調も止められている。車窓を開けて風を車内に取り込む。テレビは日本地図が赤くなったり黄色くなったりしているものが映るかコミカルなキャラクターが踊っているだけだった。コンビニに置いてあるのはよく分からない酒の缶がすこし。トランプは充電不要の娯楽だと気付いたこともある。

非日常性を夢想する、この程度の非日常性を夢想できる人がどれだけいるか。日常性から逸脱しない非日常性こそが、人間を魅了してしまう。もはや、不便さが、非日常性なのだ。

一人の三次会

 

忘年会の季節がやってくる。

23時頃に、スーツ姿の人間が居酒屋の前でたむろしている。

次に行こうとも、もう帰ろうとも、言うことができない参加者たち。誰かについていけばいいと思っているからいつまでたってもだらだらと。

酒を飲むとコーヒーが飲みたくなる。そんな人間たちを置いて深夜にやっている喫茶店を探してみる。

独りになってコーヒーを飲めることに幸せを感じるではないか。