富士の絵

 

オフィスの窓から遠くの方を毎日眺めているが、実際にそこへは行ったことがない。
そんな場所は多いと思う。電車に乗って車窓から毎日見る場所とか、色々。

いざ、じゃあその場所へ行こうと思うと途中で壁にぶつかって、それが絵に描いた背景画だということに気付いてしまうかもしれない。

行かなければそんなことに気づけないし、行かなければ背景画でも変わりがないということだ。
実は僕の周りの世界は、僕が普段生きている道しか奥行きが無くて、そのほかはただの絵かもしれないと思うこともある。
自分の生きている世界が実はこんなにも狭いものだと気付いてしまうのだ。

承認欲求の包括する条件について

 

承認欲求が包括する条件を整理してみると、承認欲求それ自身がまず自分が認められたいという欲求であることの以前に他者を認める行為であることが言えると思う。つまり、承認欲求が満たされるには、だれに承認されたのか、どのコミュニティの中で承認されたのか、それに依存しているからだ。言い換えれば、自分の承認欲求が満たされた時、少なくともその他者を、自身は、自身と同等あるいは同等以上の位にあると認めている。

数ある欲求の中でも、承認欲求ほど他者に依存するものは無いだろうと思われる。承認欲求を満たしたいならば、他者あるいはコミュニティを大切にしなければならない。自身が、他者、コミュニティを育むくらいの気持ちにならなければならない。認められたいと渇望する側から、認める側へ移行すれば良い。それは、承認を通じて、自身が、その他者へとのつながりを明確にする他、関係性を通じて、そのコミュニティの中に自身が存在していることの表現、強いて言えば、存在の拡大を計れる。これは、或るコミュニティへ参加したい場合も有効に思える。承認を通じて、関係性を表現している行為なのだと。

無くし物

 

先日、買ったばかりの物を買い物袋に入れたまま、どこかに置いてきてしまった。鋳物の小さな灰皿である。服を試着した店に置いてきてしまったのか聞いてみたけれども見つからなかった。無くしたことは悔やまれる。

 

考えてみると、無くし物はどこで無くしたのかということで精神的な消耗が変わる。

家で無くしたら、いつか出てくるだろうと安堵できる。

出て来なければ、外で無くそうが、家で無くそうが同じなのに、空虚なものに精神的な頼りを置いていることに、すこしがっかりした。

灰皿は無くしてしまったが、そんな教訓を得て、またこうして精神的な頼りを試みている。

非日常性は日常性の中に

 

昼間、車内の電気を消した小田急線が走っていたことがある。空調も止められている。車窓を開けて風を車内に取り込む。テレビは日本地図が赤くなったり黄色くなったりしているものが映るかコミカルなキャラクターが踊っているだけだった。コンビニに置いてあるのはよく分からない酒の缶がすこし。トランプは充電不要の娯楽だと気付いたこともある。

非日常性を夢想する、この程度の非日常性を夢想できる人がどれだけいるか。日常性から逸脱しない非日常性こそが、人間を魅了してしまう。もはや、不便さが、非日常性なのだ。