本屋と図書館の違い

本屋と図書館の違いについて考えてみる。

なぜそのようなことを考える至ったのか。

 

名古屋の栄駅にある丸善に立ち寄ったことがきっかけではあるが、

店内は綺麗で整然としているが、全く本屋へ入った時の冒険心というような気持ちを感じない。図書館でも見て歩いているかのような感じだった。綺麗すぎるのだと思う。平積みが少なすぎるし、ポップ全く無い。図書館みたいだなと感じた。

とくに人文思想コーナーはもう少し平積みを多くしたりする工夫を凝らした方が良いと感じた。

 

前から考えているけれど、哲学・思想コーナーは欲しい知識ごとに並べたらもっと本が売れるのではないか。哲学は道具、哲学者順、国順にまとめてしまうのは惜しい気がする。

スティーブンスとイチロー

私どものような人間は、
何か真に価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、
それを試みるだけで十分であるような気がいたします。
そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、
その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、
そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。
(『日の名残り』より引用)

 

 

ここはあえて「成功」と表現しますが、「成功すると思うからやってみたい。それができないと思うから行かない」という判断基準では、後悔を生むだろうなというふうに思う。

やりたいならやってみればいい。「できる」と思うから挑戦するのではなく、「やりたい」と思えば挑戦すれば良い。その時に、どんな結果が出ようとも、後悔はないと思うんですよね。自分なりの成功を勝ち取ったところで、じゃあ達成感がるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】https://www.buzzfeed.com/amphtml/keiyoshikawa/ichiro?__twitter_impression=true

何か性を求めて

いわゆる自分探しの旅というもので、自己についてよく分からないまま探求するせいで彷徨っている方が散見出来る。何かを探しているという状態。無くし物が何か分からないまま失せ物を探している。もしかしたら失くしていないかもしれないということも十分にあり得る話だ。どこかに置いてきたと思っていたら部屋の中で見つかったなどよくある話だが、失せ物は失せ物でも外にあるのか、中にあるのか、それが大きな違い。

自分探しという中でよく思うのは、そもそも探しているものが、自分なのか、はたまた”何か”を探しているのか、混然していることが多い。もしこの追求して止まない”何か性”たるものが外に存在するものだとしたら、極端な例、身体の自由がない人間には"何か性"たるものの追求が不可能になってしまうのかということ。
私はすべての機会が平等にあるべきだとは思わないものの、世界性(世界を構成する因子と私は考えている)はすべての人間の中に存在するのではないかと思っている。これは、仏教思想を私が学んでいることや、日本に生まれた人間特有の思考であることも留意しなければならない事項だと思っている。
つまり、"何か性"は何もアジア諸国を旅して探さなくても四畳半一間の空間でも、目を瞑っていても、見つけることが十分可能なのではないかと思っている。
ここで区別しておきたいのは、自分(自己)=何か性 ではないということ。自己とは、そもそも認識不可能なものと割り切るほうがよろしい。自己とはこの世界を認識する主体であるがゆえに、認識することが出来ない。自分の眼球を鏡も何も使わずに見ることが不可能なように、認識する主体はそれがゆえに認識できないのだ。
結局のところ、自分というものは、鏡に映る虚像や、他人からの情報に頼るしかないところも事実。自分というものは、自分が思う以上に不確かな存在だ。18世紀以降、理性の哲学は、自分という存在を思想や主義を通じて自分と他人という区分を明確にできたように思われた。だから、自分は、自分の選択で、この思想や、主義に至ったと思えるようになった。だが果たしてそうだろうか。もはや、人間はハックされる側だと考えておく方がよろしい。なぜ、自分が選択を選ぶに至ったのか?それは純然たる自分の意思による選択の積み重ねの結果か?因果関係を読み解く力が、この現代ではより重要になってくると思う。youtubeのおすすめ動画欄の方が、あなたをあなた以上に理解していないか?

いまあなたが、自分探しをしているのか、"何か性"を探しているのか、それによって探し方を変えるべきだと私の考え方をつらつらと書いてみた。失せ物が多い時代だ。そもそも得てもないものを失せ物だと思って探している人もいる。案外幸せに生きられる人は、失せ物をすっかり諦めることが出来る人なのかもしれない。配られたカードに意識を集中しないとゲームに勝てないのは考えてみたら当然だ。

レバレッジで見る世界

レバレッジとは簡単に言ってしまえば他人のエネルギーを利用して自分のエネルギーを増加し目的を達成する行為だと思っている。

レバレッジは普段日常の中に溢れている。手元にあるリソースでは普通手に入れられないチャンスを手に入れる事ができる。奨学金などはその例で、奨学金を借りて大学での教育を受ける事で将来の可能性にレバレッジを効かせているわけだ。

金融においてレバレッジが示す危険な理由は倒産と過剰債務。レバレッジは大きな力を齎すが同時に新たな義務を背負うことになる。その重さに耐えきれなければ、大きなチャンスを失うことになるし、義務の多さに振り回されてもチャンスを失うことになる。つまりは、本来、将来のチャンスのためのレバレッジが自分の首を締める原因になってしまうということだ。こうなると元も子もない。

大切なことは既存の義務を果たして、新たな義務を背負っていくことだと思う。レバレッジを極力活用しない生き方もあると思う。ただし、一人でできることには限界があることも、覚えていてほしい。物理的に。

企業のレバレッジで言えば、若い企業は借金を避けて成熟した企業はレバレッジを増やした方がいいと言うこともある。人間にとってはどうだろうか。

仏教には誓願という行為がある。仏の前で、自分の確固たる目標と達成すると誓う行為である。約束というのは自分一人、人間の自制心は全く当てにならないことを、我々はよく知っている。何かを果たしたければ、必ずやり遂げると、他人に誓う事が一番効果がある。
レバレッジによる義務には同じ効果がある。ちょうどいい義務がよい危機感を生み、よい行動力に繋がる。特に怠惰な人間にはおすすめだ。

レバレッジの論理は人の世界との向き合い方にも応用できる。レバレッジの中でも最も価値のあるものは、おそらく、同僚や友達やコミュニティからの尊敬だろう。それがあれば人や物を動かせるし、驚くほどの裁量が手に入る。理解され、尊敬される存在になれば、それが可能になる。〜〜
レバレッジを使うことを恐れないでほしい。その力を使えば、できないこともできるようになる。何より、自分に対して高い基準を課し、それを他人に約束することで、善い人間になれるかもしれない
ー『ハーバードのファイナンスの授業』ミヒル・A・デサイ

日常のなかにレバレッジの論理を見出せる機会は多くある。そこから生じる義務とチャンスをどうのように折り合いをつけて活用出来るかのトレーニングを日頃からしていけば、大きなレバレッジに出会った時によい判断が出来ると思う。
ただし、ミヒルのいうレバレッジで大切なことは、今という時間、出会う人たちにどれだけ誠実に向き合えたかという積み重ねが、大きなレバレッジを生むということ。努力をしない人間に力を齎すものでないし、短期的に利益を出せても長期的には成功出来ない。身の丈にあったレバレッジが大切だ。ならば身の丈を大きくしていけばいいだけのこと。

 

流れ星

流れ星はなかなか見つけられないが、実は見えてないだけで結構あるらしい。

流れ星が多く見られる場所に移れば願い事も叶いやすくなるかもしれないが、まさかこの環境こそが問題だと気付ける人がいくらいるだらうか。