哲学するとは何か

殊に哲学に関する批判は、人批判性を多少なりとも含んでしまう。それは哲学が理論の提示では、哲学しているとは言えないように、自分の生き方が哲学しているかを考える際には重要になるからだと思う。だから生き方に関する批判的性質が少なからず含まれてしまう。それ故に哲学に関するディベートは、内省に役立つ。

 

哲学するとは、つまりどう生きるかへの配慮する行為によって完成する。

生き方に哲学が生きている状態が哲学者だと思う。もっと軽率に言えば、ライフスタイルと言える。何故ならば、哲学の実践は、この貴方と私の人生のうえにしかありえないから。

哲学は宇宙のための学問ではない。この貴方と私の人生のうえのための学問だと考えている。それは、語りえないものを含んだ範囲を意味している。むしろ、哲学は、この宇宙以外の語りえないものを、拾いあげる役割があると思う。

枯葉

部屋で本を読むことにも飽きてきたので、近所の自然公園を散歩した。

夕暮れになって、陽の光が地面の落ち葉に反射して綺麗だった。最初は何が光っているのか、分からなかった。ずいぶん長い間、地面の枯葉を眺めていた。

本屋と図書館の違い

本屋と図書館の違いについて考えてみる。

なぜそのようなことを考える至ったのか。

 

名古屋の栄駅にある丸善に立ち寄ったことがきっかけではあるが、

店内は綺麗で整然としているが、全く本屋へ入った時の冒険心というような気持ちを感じない。図書館でも見て歩いているかのような感じだった。綺麗すぎるのだと思う。平積みが少なすぎるし、ポップ全く無い。図書館みたいだなと感じた。

とくに人文思想コーナーはもう少し平積みを多くしたりする工夫を凝らした方が良いと感じた。

 

前から考えているけれど、哲学・思想コーナーは欲しい知識ごとに並べたらもっと本が売れるのではないか。哲学は道具、哲学者順、国順にまとめてしまうのは惜しい気がする。

スティーブンスとイチロー

私どものような人間は、
何か真に価値のあるもののために微力を尽くそうと願い、
それを試みるだけで十分であるような気がいたします。
そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、
その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、
そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えてよい十分な理由となりましょう。
(『日の名残り』より引用)

 

 

ここはあえて「成功」と表現しますが、「成功すると思うからやってみたい。それができないと思うから行かない」という判断基準では、後悔を生むだろうなというふうに思う。

やりたいならやってみればいい。「できる」と思うから挑戦するのではなく、「やりたい」と思えば挑戦すれば良い。その時に、どんな結果が出ようとも、後悔はないと思うんですよね。自分なりの成功を勝ち取ったところで、じゃあ達成感がるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】https://www.buzzfeed.com/amphtml/keiyoshikawa/ichiro?__twitter_impression=true

何か性を求めて

いわゆる自分探しの旅というもので、自己についてよく分からないまま探求するせいで彷徨っている方が散見出来る。何かを探しているという状態。無くし物が何か分からないまま失せ物を探している。もしかしたら失くしていないかもしれないということも十分にあり得る話だ。どこかに置いてきたと思っていたら部屋の中で見つかったなどよくある話だが、失せ物は失せ物でも外にあるのか、中にあるのか、それが大きな違い。

自分探しという中でよく思うのは、そもそも探しているものが、自分なのか、はたまた”何か”を探しているのか、混然していることが多い。もしこの追求して止まない”何か性”たるものが外に存在するものだとしたら、極端な例、身体の自由がない人間には"何か性"たるものの追求が不可能になってしまうのかということ。
私はすべての機会が平等にあるべきだとは思わないものの、世界性(世界を構成する因子と私は考えている)はすべての人間の中に存在するのではないかと思っている。これは、仏教思想を私が学んでいることや、日本に生まれた人間特有の思考であることも留意しなければならない事項だと思っている。
つまり、"何か性"は何もアジア諸国を旅して探さなくても四畳半一間の空間でも、目を瞑っていても、見つけることが十分可能なのではないかと思っている。
ここで区別しておきたいのは、自分(自己)=何か性 ではないということ。自己とは、そもそも認識不可能なものと割り切るほうがよろしい。自己とはこの世界を認識する主体であるがゆえに、認識することが出来ない。自分の眼球を鏡も何も使わずに見ることが不可能なように、認識する主体はそれがゆえに認識できないのだ。
結局のところ、自分というものは、鏡に映る虚像や、他人からの情報に頼るしかないところも事実。自分というものは、自分が思う以上に不確かな存在だ。18世紀以降、理性の哲学は、自分という存在を思想や主義を通じて自分と他人という区分を明確にできたように思われた。だから、自分は、自分の選択で、この思想や、主義に至ったと思えるようになった。だが果たしてそうだろうか。もはや、人間はハックされる側だと考えておく方がよろしい。なぜ、自分が選択を選ぶに至ったのか?それは純然たる自分の意思による選択の積み重ねの結果か?因果関係を読み解く力が、この現代ではより重要になってくると思う。youtubeのおすすめ動画欄の方が、あなたをあなた以上に理解していないか?

いまあなたが、自分探しをしているのか、"何か性"を探しているのか、それによって探し方を変えるべきだと私の考え方をつらつらと書いてみた。失せ物が多い時代だ。そもそも得てもないものを失せ物だと思って探している人もいる。案外幸せに生きられる人は、失せ物をすっかり諦めることが出来る人なのかもしれない。配られたカードに意識を集中しないとゲームに勝てないのは考えてみたら当然だ。