少林寺の君

Youtubeに映画『少林サッカー』の名シーン集というようなものを見ていた。

少林サッカーを見ていると思い出すことがあったので、忘れないうちに書き残しておきたい。

小学生のころ、英会話の教室に少林拳法を習っている女の子がいた。確か父の影響で習っているというようなことを言っていた記憶がある。名前は覚えていない。学区が違いますとなりの小学校から来ていたと思う。

なんで名前も覚えていないような子のことを突然思い出したんだろう。しばらく不思議だった。脳の仕組みというものは良く出来ていて記憶は失わないけど、どこにしまっておいたのかが分からなくなってしまうだけなのかもしれない。

それがたまたま、『少林』という言葉でしまった場所を思い出しただけなのかもしれない。厳密に言えば、そこには加えて記憶を取り出すという行為が存在するように思われるが、思い出す思い出さないというのは自己でコントロールすることは出来ないので、しまった場所を思い出すことが即ち記憶を思い出すということになるのだろうか。

例えば何か部屋の中で物を探している時、無くし物を置いた場所を思い出した時、もう思い出す・思い出さないという選択はなく、思い出すことしか出来なくなる。これは選択できることではないのだ。

 

何にせよ。僕の人生のなかで出会っていた人間を思い出せたことは幸福だと思う。僕の人生は僕の記憶であるからして、忘れてしまえば、僕の人生からはその人はいなくなる。押入れの奥深くにしまい込んだまま、消えてしまう物のように、存在していても存在していないことと同じだ。

だから、こうして書き起こせば少しはまた記憶の隅に追い込まれにくくなると思った。僕の人生を構成する人間がまた一人増えた、そう思えば喜ばしいことだと思う。