何か性を求めて

いわゆる自分探しの旅というもので、自己についてよく分からないまま探求するせいで彷徨っている方が散見出来る。何かを探しているという状態。無くし物が何か分からないまま失せ物を探している。もしかしたら失くしていないかもしれないということも十分にあり得る話だ。どこかに置いてきたと思っていたら部屋の中で見つかったなどよくある話だが、失せ物は失せ物でも外にあるのか、中にあるのか、それが大きな違い。

自分探しという中でよく思うのは、そもそも探しているものが、自分なのか、はたまた”何か”を探しているのか、混然していることが多い。もしこの追求して止まない”何か性”たるものが外に存在するものだとしたら、極端な例、身体の自由がない人間には"何か性"たるものの追求が不可能になってしまうのかということ。
私はすべての機会が平等にあるべきだとは思わないものの、世界性(世界を構成する因子と私は考えている)はすべての人間の中に存在するのではないかと思っている。これは、仏教思想を私が学んでいることや、日本に生まれた人間特有の思考であることも留意しなければならない事項だと思っている。
つまり、"何か性"は何もアジア諸国を旅して探さなくても四畳半一間の空間でも、目を瞑っていても、見つけることが十分可能なのではないかと思っている。
ここで区別しておきたいのは、自分(自己)=何か性 ではないということ。自己とは、そもそも認識不可能なものと割り切るほうがよろしい。自己とはこの世界を認識する主体であるがゆえに、認識することが出来ない。自分の眼球を鏡も何も使わずに見ることが不可能なように、認識する主体はそれがゆえに認識できないのだ。
結局のところ、自分というものは、鏡に映る虚像や、他人からの情報に頼るしかないところも事実。自分というものは、自分が思う以上に不確かな存在だ。18世紀以降、理性の哲学は、自分という存在を思想や主義を通じて自分と他人という区分を明確にできたように思われた。だから、自分は、自分の選択で、この思想や、主義に至ったと思えるようになった。だが果たしてそうだろうか。もはや、人間はハックされる側だと考えておく方がよろしい。なぜ、自分が選択を選ぶに至ったのか?それは純然たる自分の意思による選択の積み重ねの結果か?因果関係を読み解く力が、この現代ではより重要になってくると思う。youtubeのおすすめ動画欄の方が、あなたをあなた以上に理解していないか?

いまあなたが、自分探しをしているのか、"何か性"を探しているのか、それによって探し方を変えるべきだと私の考え方をつらつらと書いてみた。失せ物が多い時代だ。そもそも得てもないものを失せ物だと思って探している人もいる。案外幸せに生きられる人は、失せ物をすっかり諦めることが出来る人なのかもしれない。配られたカードに意識を集中しないとゲームに勝てないのは考えてみたら当然だ。