日の名残

‪窓際にソファを置いて、夕日を眺めて珈琲を飲みつつ、仕事しようとしたけど、全く手付かずだったと後悔をするのも、いい日曜日の過ごし方だ。

そうこうしてるうちに、外は真っ暗になって、もう取り返しがつかなくなる。

日が出ているうちは、まだ何か取り戻せる気がする。だから、焦るわけだ。いっそ、取り戻すべきだと感じるものは、手から放してみるべきだ。そうした時に、本当に日が暮れる。

区切りとは

時間に区切りを見出すのは、人間にしか出来ない。

死という終わりを知っているから、その中に区切りを見出すことが出来る。

死を認識するとは、即ちこれ以降を認識出来ることにある。

ただ殆どの人間は、その区切りが何のためにあるのかを知らない。

仏道曰く、生死の自覚が今の価値を知らしめる手立てになる。

毎日が年の瀬のように思い、やり残したことはないか?と自問しながら

1日1日を大切に生きたい。

知識と鎮痛薬

主観拡大の装置ばかりが身の回りに溢れる中で、ペイン型の情報のみが気づけば身の回りを囲んでいることに気付く。誤った知識は、誤った知識を確証させる証左のためにクリックを繰り返す原動力となり、批判を受ければ止むこともなく逆発火的に加速させるのみに至る。思うに、ゲイン型の情報があまりにも不足している。価値観を広げるための知識。皮肉なことに、それが知識の知識たる理由だったはずだが、それはもう忘れられている。対人関係のなかにある、痛みのために用いられるような知識は止まない痛みへの鎮痛薬のようなもので、原因への対処にはならない。

哲学するとは何か

殊に哲学に関する批判は、人批判性を多少なりとも含んでしまう。それは哲学が理論の提示では、哲学しているとは言えないように、自分の生き方が哲学しているかを考える際には重要になるからだと思う。だから生き方に関する批判的性質が少なからず含まれてしまう。それ故に哲学に関するディベートは、内省に役立つ。

 

哲学するとは、つまりどう生きるかへの配慮する行為によって完成する。

生き方に哲学が生きている状態が哲学者だと思う。もっと軽率に言えば、ライフスタイルと言える。何故ならば、哲学の実践は、この貴方と私の人生のうえにしかありえないから。

哲学は宇宙のための学問ではない。この貴方と私の人生のうえのための学問だと考えている。それは、語りえないものを含んだ範囲を意味している。むしろ、哲学は、この宇宙以外の語りえないものを、拾いあげる役割があると思う。

枯葉

部屋で本を読むことにも飽きてきたので、近所の自然公園を散歩した。

夕暮れになって、陽の光が地面の落ち葉に反射して綺麗だった。最初は何が光っているのか、分からなかった。ずいぶん長い間、地面の枯葉を眺めていた。