今日の雑感

今日は正午過ぎに起きた。昨日の酒も抜けきっていないようで、身体が重く感じられたし、今日はさむい。しばらく布団の中にいて、昨晩の事を思い出した。遅くまで酒を飲んだ次の日は大抵こうして省みている。ろくなことはない。

小一時間ほど、そうした後、玄関から新聞を取り出して、見出しを一瞥して、ソファに投棄て、あたためたナポリタンをもそもそと食べて、珈琲をいれた。豆がさいごの一杯ほどしかとれなかった。買いに行こうと思った。外に出るのには十分な理由になった。今日はさむいから、コートを羽織って駅に向かった。電車で少し眠った。電車を降りてから眠ったままの気がしたまま。街をぶらぶらして、喫茶店で珈琲を飲んだ。豆屋に行き、コスタリカの豆を200gを細挽にして袋につめて貰った。蕎麦屋に行き、中華そばを食べた。卓上胡椒を目いっぱいかけてやった。私の他に客もいないので蕎麦屋の婆さんと上の棚に置いてある小さなテレビの野球中継をしばらく見つめて首が疲れたので店を出た。婆さんは手際よく丼などを片付けて背中越しに私にありがとうございましたと言ったのが、戸を閉めた際に見えた。水煙草屋に行きソファで寝ながら本を読んだ。また冷えてきたので、帰りに別の喫茶店でホットチョコレートにラム酒を多めに垂らして飲んだ。スーツ姿の男女が、近くの酒場で猥雑な話をしている。タクシーが人混みを避けて動いている。8時を過ぎても誰も彼も帰路に着く気配も無い。豆を入れた薄い小さなビニール袋を大事に抱えて帰った。

知らない街も知ってる街も休みの日に歩くだけで、気づくものが多い。

天気とかにおいとか、偶然に見かけた人とか、車とか、いろんな要素が違う様に見せてくれるし、実際違うのだろうと思う。同じ街は二度とない。

自分自身にとっての何よりの身近な非日常は、他人の日常なのかと思う。そして何よりも再現不可能に思える。

電車の窓から様々な住宅が見える、そこに住むひとりひとりが私にとっての非日常を生きている。信じられないことかもしれないが。

朝の珈琲

毎朝、モーニングを食べている喫茶店にて、珈琲を頼んだところ、マシンの調子が悪いらしい。

珈琲の味が変わっているかもしれないと店員に言われた。私から言えばこれまでに違う味に感じる日は幾度かあったのだが、これは相当のようだ。


はっきり言ってこの店の珈琲はそもそも美味しくないが、店が早朝から開いていることと新聞を広げて読めるテーブルがあることが評価できるため通っている。


基本的に朝は珈琲を飲みたい派だけれど、たまには紅茶もいいかと思って注文した。

こういう偶然は積極的に受け入れる方だ。


朝の時間というものは、どうも毎日同じ行動をしてしまう。同じ時間の同じ電車の同じ車両で同じ席に、同じ時間に駅に降りて、同じ時間に朝食を食べて、同じ珈琲を、同じ時間に職場へ・・・


今日は一つ朝の行動を変えることが出来たという訳だ、これはいいことだろう。

庭の蟻 日向日陰を 走りけり

庭に蟻が列を作っていたので、眺めていると、どうやら餌を運んでるわけでもなく何故、列を作っているのか不思議だった。

よく見るとそこは細い日陰になっていて、蟻はそれを選んで歩いているようだ。

たまに道を外れて日向に入った蟻もいるが、すぐに引き返して日陰に戻った。

蟻にとってもこの暑さは耐え難いということだろうか。

通勤とサードプレイス ①

 


通勤という行為は具体的に謂えば「通勤」によってファーストプレイスである「自宅」とセカンドプレイスである「職場」を結ぶ行為です。

改めて考えると当然のことのように感じますが、極めて近代的で合理的な行為だと思います。

例えば電車に乗ってしまえば乗車駅から降車駅までのあいだの駅は、どの程度列車が進んだのかという指標でしかありません。

 

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多くの人にとって通勤という行為は苦しいものだという認識であるということは、今更語るに及ばないことではありますが、ではなぜそもそも通勤はなぜ始まったのでしょうか。

それは輸送機関の発達と郊外化によって齎されたと言っていいと思っています。過去の通勤事情は汽車の登場によって大きく発展を遂げます。馬車よりも速く、大きい輸送機能を備えた列車は一部の労働者の通勤事情を変えていきます。

 


西洋の話で云えば汽車が登場した際、所謂列車通勤を行えるのは、知的労働階級のエリートのみでした。医師、弁護士、会計士など、その背景にはまず運賃の高さと定期券が当時の一般的な民の年収の数倍の値段もしたところから到底、手が出るものではありませんでした。列車で通勤をしているということは、それだけでステイタスでもありました。

また郊外化を進めて要因として西洋では都市の衛生状態の悪化にありました。すでに都市部の人口密集化はピークを迎えていました。それに対しライフラインはすべての人に行き届くことはなく、スラムでは劣悪な衛生環境の中で労働者が暮らしていたと言います。そういった背景もエリートたちを都市から脱出させる理由となっていた訳です。

 


そんな歴史から始まり、現代の通勤事情へ繋がっていく訳ですが、やがて「自宅」でもない「職場」でもない第3の居場所の概念が登場します。それがサードプレイスという考え方です。

サードプレイスの提唱者であるオールデンバーグはサードプレイスには条件があると言っていましたが現在、サードプレイスが意味するところ、つまり広義の意味として皆が理解しているところで言えば「自宅でも職場でもない心落ち着く場所」という意味が皆さんの理解と合致しているのではないでしょうか。

 


サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 https://www.amazon.co.jp/dp/4622077809/ref=cm_sw_r_cp_tai_BQ9BBbQQMC8JJ

良書です、やはりサードプレイスを語る上では通勤の語らなければいけないのでしょうか。

 


つづく