窓について2

 

子供の頃から、窓の外を眺めるのが好きだった。

 

私は横浜の小学校に通っていて、晴れた日には教室の窓からランドマークタワーが見ることも出来た。

ここにいながら、ここに意識がない状態は心地いいものだと思う。

 

自分の家のベランダで室外機に腰をかけて遠くにある自分の学校を眺めていた。洗濯物を干しているので洗剤の香りがした記憶がある。

いつもはそこにいながら、意識がなかった場所に、その時間は意識が向いている。

 

外から見た方が、よく分かることや、考えやすいこともある。

時間が経って後で気付いたり、離れてみて気付いたりすることは多い。

 

その時間は決して今の価値を損なうものではない。

今が希薄になって、その境が曖昧になっていくような過程だろうか。

いまもここもない状態と言える。希薄な存在になれるその時間は窓のおかげだ。

 

窓の外は、ここではない。しかし窓越しに外を見る私は、ここにいる。

もしここに窓が無ければ、ここにいる私しかいない。

 

硝子

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硝子があることに気づいた。

それを通じて起きる歪みや反射でしか、それを知ることが出来ない。

 

鈴木大拙曰く。

己れは己れだけで知れるものではない。己れならざるものがあるので己れもまたよく認知せられる。

 

思うに、認識する主体としての自己の自覚。それがその一歩だろう。

 

鈴木大拙はまたこう述べている。

無限の数といっても、それはいずれも一単位から始まるのである。驚くべきはむしろその初めの一にあるのだ。「一」というとき、既に無限がその中に在るのだから。

「今・此処」にあるという自覚。それ自身が己れならざるものの輪郭を明確にするのだから。 

待つこと

待つことが出来ないのは、待つことの怖さにある。

このまま、待っていても何も自分だけ得られないのではいか。

自分よりもはやく、誰かが大切なものを持っていくのではないか。

そういう気持ちが、待つことの怖さを増幅させ、痺れを切らして動いてしまう。

 

待つこととは何だろう。種も蒔かずにもし、実りを待っているようなら笑われる。

待つとは、実現まで自分の持っているものを投資し、成果を急がないことにある。

投資を兼ねない待ちは、何もしていないのと同義だ。そのようでは、全て奪われて何も得られない。

待つために他のことをしていてもいい。

色んな待つことを育てるのは、待つために必要なことなのかもしれない。