海について

海が好きで夏でも冬でも月に数回は行っている。

何をするわけでもなく夏はビールを飲んで寝たり冬なら散歩したり特に目的はない。

 

視界いっぱいに広がるものを観るということはいいことだと思う。平日はビル郡ばかりで視界的には狭い世界だと思う。

 

オフィスで働いていると、こうしている間にも当然だけど海は波を寄せては返してを繰り返したり、いやそれだけでなく、世界中の自然的あるいは文化的な遺産や、秘境は、同じ時間の上に存在しているということが信じられない。

そうしてそこを観光している人やそこに向かって冒険している人が羨ましく思う。

 

ぼくはそういう生き方というか時間の使い方の方に価値を感じる、ただそれだけのこと。

 

世の中の大半のことは面白くない、こんな誰にでも出来るような、なんの面白みも、生き甲斐も感じることはなさそうなことで、世界のほとんどが構成されている。

長くいれば価値を感じられるとか、真剣にやれば価値を感じられるとかそういったものは嘘で、都合よく価値のないものに価値を与えようとしているだけだ。

 

自分がおもしろいと感じたら面白い、おもしろくないと感じたなら面白くない。ただそれだけ。世界の認識主体は自分であると疑わないのに何故。

 

しかし、逆に言えばこの全く面白みのないことで生活が成り立っていて、全人類が面白いことを本当の意味で追及し始めた時、今の生活模様は全く一変するだろう。

 

こういう関係は僧侶と俗人に似ている。僧侶はどうしても世界の余分を糧に生きている。いくら修行だの苦行だの謳っていても苦しみから隔離された場所に避難した、ぼくには僧侶たちがそうにしか見えない時がある。

苦しみと向き合ってもがいて生きているそんなふつうの人間の方が余程強いなと思う時もある。

 

でもこれは仏陀の教えの本来あるところで、まずは自分を救うという始まりから言えば当然のことだと思う。嫌だなと思ったらそこから離れる。ただそれだけの教えなのだと思う。