お粥ついての考究



多くの日本人にとってお粥は、病人食だと考えられていた。なるほど、病人には良いものを食べさせる。全く理にかなったことである。
そのように、多くの日本人にとってのお粥の健康食の側面は充分に既知されているようだ。

本論

以下にあげるようにお粥を摂ることの利益を説いたものがある。
「粥有十利(しゅうゆうじり)」の「利」とはどのようなものか。
②力 (気力を増し)
①色 (体の色つやが良くなり)
③寿 (長命となり)
④楽 (食べすぎとならず、体が安楽)
⑤詞清辯 (言葉が清くさわやかになり)
⑥宿食除 (前に食べた物が残らず胸やけもせず)
⑦風除 (風邪もひかず)
⑧飢消 (消化よく栄養となって飢えを消し)
⑨渇消 (のどのかわきを止め)
⑩大小便調適 (便通もよい)
引用転載
http://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000053705 
このような、お粥の利益(りやく)の恩恵を最も受ける食事のタイミングは朝食である。
朝には一杯の水を飲むと身体にいいと言われている。その水が身体の老廃物を流すというのである。また朝はなにかと身体は水分を欲している。喉の乾きを感じて目を覚ますことは、よくあることである。そのように、上記⑨渇消の点において、お粥は水分が豊富で優れている。その他の利点については、今更語るまでもないだろう。

禅寺の朝は一杯の白粥から始まる。また、古代インド釈尊存命の時期の仏教は托鉢は朝の一度きりと定められていたように、仏教においては殊に朝食は重要視されていた。

禅寺の白粥は、味付けは胡麻塩。沢庵、梅干しと、かなり質素だ。禅寺の食事は質素を基本とする。
さて、禅寺の料理はどのような味付けをされるのか、以下に挙げる。

 苦い、酢い、甘い、辛い、塩からい、淡いの六つの味がほどよく調っておらず、また軽輭、浄潔、如法作という、料理の三徳が備わっていないのでは典座が修行僧達に食事を供養したことにはならないー『典座教訓』
語句
軽輭・柔らかくあっさりとしている様
浄潔・清浄な様
如法作・法にかなった調理がなされた
典座・禅寺で食事などを作る僧

ここで注目値するのは、淡いという味の概念である。これは薄い味付けではない、食材の味を感じる味付けのことである。煮干や鰹節が使えない精進料理では、文字通り塩梅、つまり塩加減が料理の味を決めるのである。

あとがき

先に、日本においてお粥は病人食の印象が強いと述べた。隣国、中国ではお粥はかなりポピュラーな料理である。肉などをいれたそれだけで主食になりえるようなお粥など様々である。
日本でもお粥が一般的に食べられるようになる日が来ることへ、この拙論が少なくとも寄与出来たことだろうと思う。また三十分で見直しもせず走り書きしたことをお詫び申し上げます。


仏教的な食事について


芸能人の食生活というのはメディアでよく取り上げられている。とても健康的な生活に思える。
健康的な食生活を営むには、それ相応のお金が必要になる。健康な身体は食べた物とお金で構成されているのかもしれない。このように良い物をたくさん食べていた、健康になるに違いないだろう。

僕は仏教を勉強する傍らで、出家者の食生活に非常に興味を持っていた。まず、出家者とはブッダが生きていた時代、紀元前の出家者達のことである。出家者たちは、托鉢により食糧を得ていた。托鉢とは、出家者が鉢を携え、家を周り、食べ残しや余った物などの布施を乞うことだ。
この托鉢にはいくつかルールが存在するが、基本的には1日1回、その日に得た物しか食べてはいけない。また、他の出家者から分けて貰うことも禁じられていた。
つまり、食事は1日1回、その食事についても毎日、満足な量になるかすら分からないという食生活をしていた。
そんな生活の体現者である、ブッダは80歳まで往生し、インド中を歩き回っていた。ただ、仏教教団が大きくなってきてからは、この托鉢についてかなり豪華な食事(硬いものから軟らかいものまで=ごちそう)を出されることもあったらしいので、食事の量や質については大きく向上した。しかし、基本的には1日1食という決まりは守られていた(病人は1日に数回食事をして良いとされていた)。
ブッダという一人の例だけで語るのは説得力に欠けるが、このような一例もあることは、食生活を考える上で踏まえておいても良さそうだ。


ロボットの戦争


人工知能を持つロボットが戦争に参加する未来。もしかしたら現在でもどこかの分野では活躍しているのかもしれない。究極的にいつかはロボット同士の戦争で勝敗を決めるのだろうか。

勝ち負けには納得させうる過程が必要になると思う。
オバマ安倍晋三がジャンケンしてオバマが勝ったから、よし今日からは日本はアメリカになりますと言われても納得出来ない。
その過程で、いくら血が流れたか。これだけ人が死んだ、相手も死んだ、けど負けた。そのような過程。
さっきのジャンケンは極端すぎる。ロボットが人間に変わり土地を制圧していく過程があるのだから、血が流れないはずがないのだ。しかし、ロボットに家族を殺された。残された人間は誰を恨めばいいのか、肩透かしをくらいそうだ。
無駄に流れたように感じる血にもそれなりに意味がありそうだと思う。

夏が終わりそう


気付いたら黄色い葉っぱが道に落ちている。ひまわりも頭を下げ始めているし、アジサイもまがまがしく枯れた。とんぼの数も増えているし、しまむらは夏物最終セールを始めた。
この夏僕に出来たことは何だったんだろう。