席を譲れる人
席を譲れる人は、優しいだとか、気遣いがあるだとか、そんなことは、全く不確かな、主観的なものでしかない。
席を譲れる人は、席を持つということしか、そこに客観的な事実はない。
寄付だとか、親切だとか、そんなものは、持っている人間にしか出来ない。
席を譲られて、座っていた人間に、感謝するくらいなら、この電車で最初から座ってない人間に頭を下げるべきではないか。
あなたのために、座っている人間を殴って、席を用意しましたっていう人間がいたら、感謝するべきだと思う。
結局、いいことするにも、財力か、自分自身を捧げるか、どちらかしかない。
そのどちらも出来ない人間は、いいことすら出来ない、社会の中の、無視された存在だ。
その存在すら、持っている人間からは、認識されない。
人が関心を持つのは便器まで。
分別だとか、エコだとか本当は興味無いんだろう。
ゴミ袋をまとめて、それをゴミ捨て場に放り投げた時、もうそのゴミ袋は、関係ないんだろう。
そのゴミ袋に、スプレー缶が入ってようが、燃えるゴミに、
燃えないゴミが混ざっていて、ゴミ捨て場に、ずっと置き去りにされていようが、もう関係ないんだろう。
処理するのは、自分じゃないんだからね。
こうやって、色んな責任が、どこか遠くに、流されている。
それが行き着く先に住む人間は、私たちを殺すだろうね。
ちなみに私は、燃えるゴミに、加湿器を捨てたことがあります。