醜く生きる


人は醜く生きて、醜く死ねばいいと思う。

そういう醜くい生き方をしている人間に、理解を示す必要もない。

そういう醜くい生き方をしている人間に、理解を示さない人間も、醜く死んでいい。

そういう醜くい生き方をしている人間を侮蔑や軽蔑している人間も、醜く死んでいい。

そういう醜くい生き方をしている人間にはならないと決意した人間も、醜く死んでいい。

美しく死のうと思うな。

しかし、美しく死ね。

美しく生きようと思うな。

しかし、美しく生きよ。

なんでもいいや。馬鹿だな。




仏教徒は星に願うか



願いとは仏教においては本来、その宗教な目的上存在し難いものではあるが、大乗仏教においては、誓願という形で、誓いを守り抜くと願いがかなうという、菩薩行は初期大乗仏教の目玉商品であった。
特筆すべきは菩薩行のシステム上、仏の教えを知っていなければいけないということがなく、言い換えれば仏法を知らなくても良いということだ。
しかし、そのようにしても、願いというのは誓いを守り抜いて得られるものである。まさにまずは、自力に他ならなかった。
仏教徒は星に願う際に、同じく誓いの言葉も、星に対して立てるべきかもしれない。

白い国


多くの日本人は特定の宗教に属さない。ゆえに様々な宗教に寛容的である。このような風土は日本特有のものだ。しかし、このような風土は寛容さを生み出す一方で、本質的で宗教的な経験や知識、あるいは思想に触れることができなくなる。まさにこのような宗教の本質は、心から信仰する姿勢から生じる。日本人はそのような宗教の恩恵を得られるのだろうか。あるいはそのような宗教の恩恵を失ったおかげで、宗教への寛容さを得ることとなり、宗教的な問題が起こりにくい風土を得たのか。
どちらにせよ、日本の風土は特有のものである。日本はこのような風土を活かし、宗教問題と関わっていくべきなのかもしれない。

情報は捨てる


自分が興味も関心も感じないような無駄な情報は知らない方がいい。本当に必要な情報は、時が来れば自ずと知らなければいけなくなる。その日を待てばいい。

食べ物は好き嫌いしてはいけないけど、情報は好き嫌いしていい。興味ない、嫌いだから、そんなニュースは見ていない。そう、面接官に言ってやるのも、いいかもしれない。

喫茶店の使い方


喫茶店はよく使う。煙草が吸えてコーヒーが飲めるのは、いまでは喫茶店くらいだからだ。
喫茶店というのは、どんな環境に立地しているかなどの条件で、店の空気が違う。長居するだけの客がだらだらとだらしなく居座ってたり、逆に駅の中にある喫茶店はスーツ姿の男たちが忙しなく出入りしている。
喫茶店の使い方は基本的に自由だと思う。ただし、店や他のお客さんに迷惑になるような使い方は、当然ながらしてはいけない。
これだけ言うと、当たり前のことを言っているだけのようではあるが、さらに付け加えるならば、そこに品格がなければいけない。言うならば、自分自身がその店を外から見た人にとってのオブジェクトとなりえているか。また、その店を利用する価値が自分にあるかどうか、ということだ。何にせよ、店に対して利用者は、礼儀を尽くし、マナーを守らなければいけない。客は神でも何でもない。対等な関係である。