自然の道徳の破壊者は聖人である

自然の道徳の破壊者は聖人である

太古の純朴な時代には、人間は鳥獣とともに遊び、何の仕事をするでもなく、好きなものを食って腹皷みをうち、その日を楽しく過ごす生活を送っていた。

ところが聖人と称するものがあらわれ、やれ仁義だの、礼楽だのといったものを強制するようになってからは、人間はその純朴の性を失い、悪知恵が発達して、さまざまの悪事を働くようになった。

これみな聖人の罪によるものである。ー『老子荘子』森三樹三郎 講談社学術文庫

 

 

徒然草 第229段

よき細工は、少しにぶき刀をつかふといふ。妙観(みょうかん)が刀はいたくたたず。

徒然草第229段

『腕のいい細工師は少し切れ味の悪い小刀を使うという、妙観の刃も切れ味が少し悪かったらしい。』

 

徒然草の中に短いけれども、こんな一節がある。よく記憶に残っている。

 

宝亀十一年(780)妙観という名の比丘が彌勒寺を訪ね、七月十八日より八月十八日の間に、白檀香木をもって身丈八尺の十一面千手観音を彫刻した。これが当山のご本尊である。
 かの「徒然草」で吉田兼好は「よき細工は、少しにぶき刀をつかうといふ。妙観が刀はいたくたたず―――」と記しているが、稀代の名工であった妙観は、観音の化身と信じられ、観音縁日を十八日と定めたるは当本尊より始まる。 故に西國霊場第二十三番札所でもあり、妙観が刻んだ香木は、今も当山に安置されている。勝尾寺の由来 | 勝尾寺について | 勝尾寺

 

彫刻においては一度削り取ってしまった物は元には戻らないため、敢えて切れ味の悪い小刀を使ったのだろうというのが、個人的な解釈。失敗を恐れている。だから、対策を講じる。

 

失敗は恐れた方がいい、素直に慎重に、善良な臆病者でいた方がいい。しかし刀を進める時は大胆に。

失敗したら反省する。反省とは自己満足に良好な精神を取り戻す行為ではない、失敗の本質に向き合う行為である。

 

忘れ物

よく行く喫茶店にライター類の忘れ物がカウンター席に置いてある。

おそらくライターを忘れた方用に置いあるのだと思う。

ほとんどがBICライターやおまけのライターばかりで特に気にしたことはなかった。

今日行くと、そこに象のイラストが書かれた黄色いマッチ箱が置いてあった。

ローマ字で the erawan museum と書かれている。

調べてみるとタイにエラワンミュージアムという寺院があるらしく、そこで手に入れたのだろう。

どういった経緯でこの喫茶店に流れ着いたのか、マッチ箱を眺めて考えてみる。