庭の蟻 日向日陰を 走りけり

庭に蟻が列を作っていたので、眺めていると、どうやら餌を運んでるわけでもなく何故、列を作っているのか不思議だった。

よく見るとそこは細い日陰になっていて、蟻はそれを選んで歩いているようだ。

たまに道を外れて日向に入った蟻もいるが、すぐに引き返して日陰に戻った。

蟻にとってもこの暑さは耐え難いということだろうか。

通勤とサードプレイス ①

 


通勤という行為は具体的に謂えば「通勤」によってファーストプレイスである「自宅」とセカンドプレイスである「職場」を結ぶ行為です。

改めて考えると当然のことのように感じますが、極めて近代的で合理的な行為だと思います。

例えば電車に乗ってしまえば乗車駅から降車駅までのあいだの駅は、どの程度列車が進んだのかという指標でしかありません。

 

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多くの人にとって通勤という行為は苦しいものだという認識であるということは、今更語るに及ばないことではありますが、ではなぜそもそも通勤はなぜ始まったのでしょうか。

それは輸送機関の発達と郊外化によって齎されたと言っていいと思っています。過去の通勤事情は汽車の登場によって大きく発展を遂げます。馬車よりも速く、大きい輸送機能を備えた列車は一部の労働者の通勤事情を変えていきます。

 


西洋の話で云えば汽車が登場した際、所謂列車通勤を行えるのは、知的労働階級のエリートのみでした。医師、弁護士、会計士など、その背景にはまず運賃の高さと定期券が当時の一般的な民の年収の数倍の値段もしたところから到底、手が出るものではありませんでした。列車で通勤をしているということは、それだけでステイタスでもありました。

また郊外化を進めて要因として西洋では都市の衛生状態の悪化にありました。すでに都市部の人口密集化はピークを迎えていました。それに対しライフラインはすべての人に行き届くことはなく、スラムでは劣悪な衛生環境の中で労働者が暮らしていたと言います。そういった背景もエリートたちを都市から脱出させる理由となっていた訳です。

 


そんな歴史から始まり、現代の通勤事情へ繋がっていく訳ですが、やがて「自宅」でもない「職場」でもない第3の居場所の概念が登場します。それがサードプレイスという考え方です。

サードプレイスの提唱者であるオールデンバーグはサードプレイスには条件があると言っていましたが現在、サードプレイスが意味するところ、つまり広義の意味として皆が理解しているところで言えば「自宅でも職場でもない心落ち着く場所」という意味が皆さんの理解と合致しているのではないでしょうか。

 


サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 | レイ・オルデンバーグ, マイク・モラスキー(解説), 忠平 美幸 |本 | 通販 | Amazon

良書です、やはりサードプレイスを語る上では通勤の語らなければいけないのでしょうか。

 


つづく

休もう、once more

7月に入ってからというもの、胃腸炎にかかり、治ったと思うと蕁麻疹になり、また落ち着いた頃に帯状疱疹になった。働くこともできずにこの7月はほとんどまともに出勤していない。 休んでいると色々仕事のことが気になるが、会社組織の仕事というものは自分がいなくても勝手に進んでいくことは進んでいくもので、進めなければいけないもので進まないものは誰かが新しい方法でコトを進めてしまう。果たして自分の仕事とはなんぞやと思う。


会社というものは度々、植物と似ていると思うことがある。花が切り落とされようが、枝が数本切り落とされようが、植物は生きている。それどころか、十分な栄養さえあれば、植物は新たな細胞を組織し、その埋め合わせを行う。違うところといえば素早い意思決定の組織を持っているかどうか、というところだろうか。 植物の生存戦略は本当に素晴らしく、①勝てる場所を見つける②誰よりも早く成長する③そして大きくなり他の植物の成長を許さない、というあたりが、植物の基本的な生存戦略に思える。ことに③については過激だ。森林というものが、ある種の戦場だとも思える程に。


植物が植物たる所以として植物は光合成を行う。光合成を行うのは植物細胞のなかの細胞内器官の葉緑体によって行われる。葉緑体はもともと独立した生物だったという。

 

葉緑体は、細胞の中で独立したDNAを持ち、自ら増殖していく。そのため、光合成を行う単細胞生物が、他の大きな単細胞生物に取り込まれて、共生していくうちに、細胞内器官となったと考えられているのである。『植物はなぜ動かないのか』稲垣栄洋

 


植物は光合成により、炭水化物を生産する。化学を勉強していれば当たり前のことのように思えるが言い換えれば光のエネルギーを植物を含んだ全ての生物に利用できるエネルギーに変換しているということだ。 僕はさっき、会社は植物組織に似ているなと思うことが度々あると述べた。社員は植物細胞だと仮定すると植物でいう、太陽光エネルギーは会社組織でいうと何にあたるのだろう。僕はどんなエネルギーを受けて何に変換して、社会に還元しているのだろうか。
Pinboardというソーシャルブックマークサービスを営むマチェイ・チェグロフスキはこういう風に言っているという。

好きなことをビジネスにできているのだから羨ましいと思う人もいるかもしれませんが、「好き」だけでは人は働き続けられないものです。「好き」は、キャンディのようなもので、栄養にはなりません。「働く」ことを続けていくためには栄養が必要です。ぼくにとってのそれは「誰かの役に立っている」ということなんです。『WIRED 2013.03.11,Vol7』

 


考えてみると、僕たちは根を張らないはずなので好きなところに行ける。太陽は一つなのは間違いないが、僕たちがエネルギーを受ける対象は一つとは限らない。 好きなエネルギー、嫌いなエネルギー様々だと思う。逆に、人のエネルギーを食い物にしている人もいるし、人に大きなエネルギーを与えている人もいる。そして、栄養も人それぞれ違う。やりがいが栄養だという人もいるしお金がなによりの栄養だという人もいる。

重要なのは、それが本当に自分にとっての栄養になっているかどうか、見極められるかどうかだと思う。科学的に根拠のないものにこれは身体いいとか言ったり、そんなものはいくら摂取しようが身体にとっては何の栄養にもなっていない。
そういう意味でこの休みは自分にとっていいものだった。体調不良というものは、どうも起きることにいつも意味があるように思う、当然体調不良には原因があるので、それを振り返る機会にもなる。働いていないと、いつもより仕事以外のことについて考える時間が増えて、有意義な時間となる。

なんにせよ起きたことにいい意味を持たせることは得意な方だと自負している。

少林寺の君

Youtubeに映画『少林サッカー』の名シーン集というようなものを見ていた。

少林サッカーを見ていると思い出すことがあったので、忘れないうちに書き残しておきたい。

小学生のころ、英会話の教室に少林拳法を習っている女の子がいた。確か父の影響で習っているというようなことを言っていた記憶がある。名前は覚えていない。学区が違いますとなりの小学校から来ていたと思う。

なんで名前も覚えていないような子のことを突然思い出したんだろう。しばらく不思議だった。脳の仕組みというものは良く出来ていて記憶は失わないけど、どこにしまっておいたのかが分からなくなってしまうだけなのかもしれない。

それがたまたま、『少林』という言葉でしまった場所を思い出しただけなのかもしれない。厳密に言えば、そこには加えて記憶を取り出すという行為が存在するように思われるが、思い出す思い出さないというのは自己でコントロールすることは出来ないので、しまった場所を思い出すことが即ち記憶を思い出すということになるのだろうか。

例えば何か部屋の中で物を探している時、無くし物を置いた場所を思い出した時、もう思い出す・思い出さないという選択はなく、思い出すことしか出来なくなる。これは選択できることではないのだ。

 

何にせよ。僕の人生のなかで出会っていた人間を思い出せたことは幸福だと思う。僕の人生は僕の記憶であるからして、忘れてしまえば、僕の人生からはその人はいなくなる。押入れの奥深くにしまい込んだまま、消えてしまう物のように、存在していても存在していないことと同じだ。

だから、こうして書き起こせば少しはまた記憶の隅に追い込まれにくくなると思った。僕の人生を構成する人間がまた一人増えた、そう思えば喜ばしいことだと思う。

鳥貴族でコーヒーを飲みたい

以前、Twitterの方でこんなことを呟いた。

 


すると妙に反応してくれる人が多かったので、同じことを考えている人は多いのかもしれない。

雑誌WIREDのなかで日本版前編集長の若林恵のEDITOR’S LETTERのなかにこんな話があった。私もお酒があまり飲めないので、飲み会だとかに行くよりはコーヒーを飲んで話でもしたいなと思う方だ。

 

「お酒がダメなので、昼でも夜でもやたらとコーヒーを飲む。スタバはタバコを吸えないし、深夜はやってないので却下。深夜であれば何杯でもおかわりできるファミレスが望ましい。そこで、友人と延々与太話をしたりする。ほとんどはロクでもない内容だけれども、4、5時間話し続けたあげく、面白い地点に到達することがある。おおげさに言えば、いままでお互いが考えてもみなかった新しい認識にたどりつくようなことがある。気になりつつも放置していた情報やアイデアが思わぬところで結びついたり、ぼんやりしていた企画がくっきりと像を結んだり。新たなパースペクティヴが生まれる、とでも言おうか。」 

 

よく久々に友人と会話したりすると、「今度飲みに行こうよ」などというセリフはこんな時の常套句。別にお酒の席じゃなくてもいいんじゃないのと思うけど。「今度コーヒーでも飲みに行こうよ」というセリフはこういう場面で出くわしたことはないし、私も発したことがない。
そもそも、「飲みに行きたい」とかそういう意味をこの場での「今度飲みに行こうよ」という言葉には含まれていない。「久しぶりだね」という頭語に対する結語みたいなもので、拝啓に始まり敬具で終わるような、ある種のマナーなのだ。

いつの間にか友人たちや会社の人間とはアルコールがセットの付き合いになっていた。これは大学生以降顕著に見られる付き合いの場の選択肢の減少。
アルコールを挟まないで関係を維持できる友人たちってあなたどのくらいいらっしゃるの?って、自分に語りかける。
いや、酒の席というきっかけでしかいつの間にか集まることがなくなってしまった。
いや、そういうことでは酒の席というものは希少なものだと思う。自問自答する。

ほんとは会社の同期とはコーヒーでも飲みながら建設的な話をすることを夢見てる。上司がどうのとかそういう話は面白くない。何が好きでいま何に夢中で何がしたいとかそういう話をしたい。
友人たちともコーヒーを飲みながら哲学や倫理について、これからの生き方について大いに語り合いたい。酔っ払った自分という盾を構えて話すのはたまには休みたい。脳をカフェインで覚醒させて大いに語り合う。そんなこともいいと思います。