知らない街も知ってる街も休みの日に歩くだけで、気づくものが多い。
天気とかにおいとか、偶然に見かけた人とか、車とか、いろんな要素が違う様に見せてくれるし、実際違うのだろうと思う。同じ街は二度とない。
自分自身にとっての何よりの身近な非日常は、他人の日常なのかと思う。そして何よりも再現不可能に思える。
電車の窓から様々な住宅が見える、そこに住むひとりひとりが私にとっての非日常を生きている。信じられないことかもしれないが。
知らない街も知ってる街も休みの日に歩くだけで、気づくものが多い。
天気とかにおいとか、偶然に見かけた人とか、車とか、いろんな要素が違う様に見せてくれるし、実際違うのだろうと思う。同じ街は二度とない。
自分自身にとっての何よりの身近な非日常は、他人の日常なのかと思う。そして何よりも再現不可能に思える。
電車の窓から様々な住宅が見える、そこに住むひとりひとりが私にとっての非日常を生きている。信じられないことかもしれないが。
毎朝、モーニングを食べている喫茶店にて、珈琲を頼んだところ、マシンの調子が悪いらしい。
珈琲の味が変わっているかもしれないと店員に言われた。私から言えばこれまでに違う味に感じる日は幾度かあったのだが、これは相当のようだ。
はっきり言ってこの店の珈琲はそもそも美味しくないが、店が早朝から開いていることと新聞を広げて読めるテーブルがあることが評価できるため通っている。
基本的に朝は珈琲を飲みたい派だけれど、たまには紅茶もいいかと思って注文した。
こういう偶然は積極的に受け入れる方だ。
朝の時間というものは、どうも毎日同じ行動をしてしまう。同じ時間の同じ電車の同じ車両で同じ席に、同じ時間に駅に降りて、同じ時間に朝食を食べて、同じ珈琲を、同じ時間に職場へ・・・
今日は一つ朝の行動を変えることが出来たという訳だ、これはいいことだろう。
庭に蟻が列を作っていたので、眺めていると、どうやら餌を運んでるわけでもなく何故、列を作っているのか不思議だった。
よく見るとそこは細い日陰になっていて、蟻はそれを選んで歩いているようだ。
たまに道を外れて日向に入った蟻もいるが、すぐに引き返して日陰に戻った。
蟻にとってもこの暑さは耐え難いということだろうか。
通勤という行為は具体的に謂えば「通勤」によってファーストプレイスである「自宅」とセカンドプレイスである「職場」を結ぶ行為です。
改めて考えると当然のことのように感じますが、極めて近代的で合理的な行為だと思います。
例えば電車に乗ってしまえば乗車駅から降車駅までのあいだの駅は、どの程度列車が進んだのかという指標でしかありません。
多くの人にとって通勤という行為は苦しいものだという認識であるということは、今更語るに及ばないことではありますが、ではなぜそもそも通勤はなぜ始まったのでしょうか。
それは輸送機関の発達と郊外化によって齎されたと言っていいと思っています。過去の通勤事情は汽車の登場によって大きく発展を遂げます。馬車よりも速く、大きい輸送機能を備えた列車は一部の労働者の通勤事情を変えていきます。
西洋の話で云えば汽車が登場した際、所謂列車通勤を行えるのは、知的労働階級のエリートのみでした。医師、弁護士、会計士など、その背景にはまず運賃の高さと定期券が当時の一般的な民の年収の数倍の値段もしたところから到底、手が出るものではありませんでした。列車で通勤をしているということは、それだけでステイタスでもありました。
また郊外化を進めて要因として西洋では都市の衛生状態の悪化にありました。すでに都市部の人口密集化はピークを迎えていました。それに対しライフラインはすべての人に行き届くことはなく、スラムでは劣悪な衛生環境の中で労働者が暮らしていたと言います。そういった背景もエリートたちを都市から脱出させる理由となっていた訳です。
そんな歴史から始まり、現代の通勤事情へ繋がっていく訳ですが、やがて「自宅」でもない「職場」でもない第3の居場所の概念が登場します。それがサードプレイスという考え方です。
サードプレイスの提唱者であるオールデンバーグはサードプレイスには条件があると言っていましたが現在、サードプレイスが意味するところ、つまり広義の意味として皆が理解しているところで言えば「自宅でも職場でもない心落ち着く場所」という意味が皆さんの理解と合致しているのではないでしょうか。
サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 サードプレイス―― コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」 | レイ・オルデンバーグ, マイク・モラスキー(解説), 忠平 美幸 |本 | 通販 | Amazon
良書です、やはりサードプレイスを語る上では通勤の語らなければいけないのでしょうか。
つづく
7月に入ってからというもの、胃腸炎にかかり、治ったと思うと蕁麻疹になり、また落ち着いた頃に帯状疱疹になった。働くこともできずにこの7月はほとんどまともに出勤していない。 休んでいると色々仕事のことが気になるが、会社組織の仕事というものは自分がいなくても勝手に進んでいくことは進んでいくもので、進めなければいけないもので進まないものは誰かが新しい方法でコトを進めてしまう。果たして自分の仕事とはなんぞやと思う。
会社というものは度々、植物と似ていると思うことがある。花が切り落とされようが、枝が数本切り落とされようが、植物は生きている。それどころか、十分な栄養さえあれば、植物は新たな細胞を組織し、その埋め合わせを行う。違うところといえば素早い意思決定の組織を持っているかどうか、というところだろうか。 植物の生存戦略は本当に素晴らしく、①勝てる場所を見つける②誰よりも早く成長する③そして大きくなり他の植物の成長を許さない、というあたりが、植物の基本的な生存戦略に思える。ことに③については過激だ。森林というものが、ある種の戦場だとも思える程に。
植物が植物たる所以として植物は光合成を行う。光合成を行うのは植物細胞のなかの細胞内器官の葉緑体によって行われる。葉緑体はもともと独立した生物だったという。
葉緑体は、細胞の中で独立したDNAを持ち、自ら増殖していく。そのため、光合成を行う単細胞生物が、他の大きな単細胞生物に取り込まれて、共生していくうちに、細胞内器官となったと考えられているのである。『植物はなぜ動かないのか』稲垣栄洋
植物は光合成により、炭水化物を生産する。化学を勉強していれば当たり前のことのように思えるが言い換えれば光のエネルギーを植物を含んだ全ての生物に利用できるエネルギーに変換しているということだ。 僕はさっき、会社は植物組織に似ているなと思うことが度々あると述べた。社員は植物細胞だと仮定すると植物でいう、太陽光エネルギーは会社組織でいうと何にあたるのだろう。僕はどんなエネルギーを受けて何に変換して、社会に還元しているのだろうか。
Pinboardというソーシャルブックマークサービスを営むマチェイ・チェグロフスキはこういう風に言っているという。
好きなことをビジネスにできているのだから羨ましいと思う人もいるかもしれませんが、「好き」だけでは人は働き続けられないものです。「好き」は、キャンディのようなもので、栄養にはなりません。「働く」ことを続けていくためには栄養が必要です。ぼくにとってのそれは「誰かの役に立っている」ということなんです。『WIRED 2013.03.11,Vol7』
考えてみると、僕たちは根を張らないはずなので好きなところに行ける。太陽は一つなのは間違いないが、僕たちがエネルギーを受ける対象は一つとは限らない。 好きなエネルギー、嫌いなエネルギー様々だと思う。逆に、人のエネルギーを食い物にしている人もいるし、人に大きなエネルギーを与えている人もいる。そして、栄養も人それぞれ違う。やりがいが栄養だという人もいるしお金がなによりの栄養だという人もいる。
重要なのは、それが本当に自分にとっての栄養になっているかどうか、見極められるかどうかだと思う。科学的に根拠のないものにこれは身体いいとか言ったり、そんなものはいくら摂取しようが身体にとっては何の栄養にもなっていない。
そういう意味でこの休みは自分にとっていいものだった。体調不良というものは、どうも起きることにいつも意味があるように思う、当然体調不良には原因があるので、それを振り返る機会にもなる。働いていないと、いつもより仕事以外のことについて考える時間が増えて、有意義な時間となる。
なんにせよ起きたことにいい意味を持たせることは得意な方だと自負している。